Nerorism-Niiro Sho Photography

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Another Side 写真集キャプション 2020.5.28更新

写真集について

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東京、浅草北部に位置する街、通称「山谷」。かつて肉体労働者の街と呼ばれ、幾多の暴動やドヤ街独特の世界に、近づくことすら憚られるエリアであった。しかし現在、高齢化の波に福祉の街へと姿を変えるも、わずかな報道があるのみで、その現状があまり知られていないのも事実である。最近では外国人旅行者から就活生など、宿を利用する人は多様化している。本作AnotherSideは7年間にわたって山谷の帳場で働きながら、ありのままの山谷を切り取った作品である。2011年に北京で開催された個展に合わせてZenFotoGalleryより発売された「山谷」に次ぐ二冊目の写真集。

写真集にはキャプションを入れていないのですが、どういうシチュエーションなのか等わかるとより楽しめると思いまして簡単ではありますが各写真についてのメモを残しておきます。内容は当時のものになります。

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泪橋交差点近くの案内板に書いてあった落書き。明日のジョーで有名な泪橋であるが、江戸時代には思川という川が実際に流れ橋が架かっていた。橋を渡ると小塚原処刑場。

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山谷は他の三大ドヤ街と違って江戸時代から形成されてきた為、民家などが入り交じっている。高いドヤが少ないのも特徴。

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無料診療所が開くのを待つ人達。朝8時頃。肉体労働者の街というのは過去の姿で、福祉の街、介護の街へと変わっている。

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吉原と山谷は地理的に近い。かつては吉原で働けなくなった遊女が山谷でたちんぼをしていたという。これは舐めさせ屋。相場は2000円ほどが最高で、私は一度見た所70過ぎの女性にイチゴーでどうだ?と声をかけられたことがある。

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泪箸交差点から見える高いドヤ、パレスハウスの脇を入ると道の両側にドヤが軒を連ねている。かつて山谷銀座と言われた通り。

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かつて日雇いの仕事が見つからなかった「アブレ」と言われた労働者も過去の話。
実際に手配師を見たのは2006年くらいか。山谷でも携帯で仕事を探し時代になって久しい。

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雨の日はみなドヤの中にこもるので人通りが減る。
山谷の人通りが増えるのは朝、昼、晩の御飯時。スーパーしまだやでの買い物が多い。

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私がいた2010年前後でも福祉の街から介護の街へと変化し、介護型の簡易宿泊所が増えた。これは西成や寿町でも同じ傾向である。それから10年後の現在、生活保護受給者が占める割合が増した。もはや日雇い労働者の街としての顔はない。

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山谷の朝は早い。5時すぎ。
同時に飲み屋もオープンする。

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炊き出しでもらったおにぎりを雨の中ほおばる男性。
宿が見つからなければ野宿。冬ともなると死活問題である。

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山谷は南千住駅から陸橋を渡って数分。貨物列車専用の隅田駅がある。
山谷と反対側は高層マンションやララテラスといった複合商業施設があり、若い世代に人気の街になっている。ドヤが立ち並んだエリアも、跡地にマンションが建つようになり、街の様子は今急変している。

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雨の日。この人は会うと色々売りつけてくる。包装袋にも入ってない昆布を日髙昆布だから買えだの、どこかで拾って来た成人雑誌をいらないかと。断ると「この乞食野郎!」とののしられた。

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山谷地区は面積は約1.65k㎡程度の小さなエリアである。諸説あるが、日光街道沿いに木賃宿が僅かばかし並ぶ場所であり、たった三つの家屋しかなかった事から、「三屋」が転じて「山谷」と呼ばれる様になったという説が有力。

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無料で提供されるお茶、寒い冬場にはありがたい。

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今はもうない立ち食いの駒寿司の真向かいに豚汁と握り飯を売る店があった。その他にメニューがあったのかもしれないが、皆決まって豚汁を頼む。確か250円かそこらだった。山谷の食堂は意外に高い。朝食なんかでも下手すると1000円を越えてしまう。山谷は山谷の値段という所なのだろうか。

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路上で弁当を食べかけたまま居眠りを始めてしまったおっさん。
シャケが落ちているのがなんともシュール。どういう状況なのかはさっぱり分からない。
山谷ではよく分からない事のほうが日常。

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実は山谷にマザーテレサが訪れたことがある。1981年のこと。
左側の建物はマザーテレサが建てた教会である。奥に見えるのが労働センター。

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労働センター脇にて寝転んで一人大声でわめく女性。
よく聞き取れなかったが、息子がどうのと言っていた。

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かつて肉体労働に従事していた人は一目で分かる。兄ちゃんは山谷の男じゃないな、と何度となく言われたものだ。このおじさん、写真を撮ってから気づいたが素足である。

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泪箸交差点、買い物帰り。ここにあるコンビニはかつて世界本店という居酒屋があり、泪箸に立てば世界が見えるといったそうな。山谷は世界の縮図であるという比喩である。

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山谷と三ノ輪の間で倒れていたのを見かねて宿探しを手伝った時の写真。私が貸したiPhoneを珍しそうにしていた。500円で泊まれるところを探して来いと他区から歩いて来たという。さすがにそんな値段で泊まれるところはない。

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2010年頃撮影。山谷は安宿街として地方から出張するサラリーマンや就活生が泊まるようになっていた。とはいえ、一般の人でも泊まれる宿は全体の1割ほどでしかない。

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バックパッカーの街カオサンにちなんで、山谷地区の旅館組合が山谷カオサン化計画を打ち出しのも2010年頃だったと思う。その頃はどこの宿も空室が目立っていた。

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いろは商店街前にて。山谷では高倉健だと言い張るひとや、我こそが天皇だと信じ込んでいる人と様々。何をしているのかと聞くほうが野暮である。

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泥酔した友人をタクシーにのせようとしている。私が働いていたドヤの主人いわく、80年代は大通りでも徐行しないと酔っぱらいを引いてしまうので運転手は気をつけていたとか。ただでさえ当たり屋がでるというのに。

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日用品店の前にて。帳場の仕事は18時から翌日10時までだったので、よくビーフンを作って夕飯にしていた。この店の男性店主は甲高い声で、ありがとうごじゃいましたぁ!と妙なイントネーションで言うので今でも耳に残っている。

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先の写真で宿探しをしていたおじさん。結果的に宿探しの手伝いをすることになり、夕方になってようやく泊まる場所が見つかった。ということで記念撮影。

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どうして入ってもいない自動販売機のサンプルを持って行くのでしょうかね。
2018年に訪れた際、いろは商店街からアーケードがなくなって、本当に同じ場所なのかと目を疑ってしまった。山谷のシンボルの一つだった。

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肉体労働者で活気溢れる様子を見たいのなら、映画「やられたらやり返せ」がおすすめ。

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物騒なようだが、三社祭の際の写真。奥に神輿が見える。
山谷の街も大いに盛り上がる。

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2010年あたりから中国系の居酒屋が増えた。どうやら組織ぐるみで店を出しているらしい。
店同士の喧嘩。

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一時期よく見たおばあさん。何度話しても何を言わんとしているかはわからなかった。
ある時を境にばったりみかけなくなった。去る者追わずというのが山谷の流儀。

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2020年、もう山谷と呼ぶのもどうかと思われるほど変わった街を歩いて驚くのが、路上で寝転んでいる人がほぼ皆無なこと。彼らは何処に行ったのだろう。

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拾ったアルミ缶を売って生活のたしにする。山谷は元々の仕事柄、職人気質な人が多くなるべく自分の力でなんとかしようとする人が多いように思う。近所の小学校で地区の人が作った作品展があるが、レベルが高すぎてびっくりする。

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朝7時ドヤの前を掃き掃除していると、キッチンアンクル(既に閉店)へ食事をしに行く車いすのおじさんに必ずと言っていい程出会う。

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大晦日の労働センター前。年末年始センターが閉まってしまうので、宿の無い人にボランティアの人がすのこの上に布団を敷く。越冬。以前は朝になるとそのまま冷たくなっている人もいたそうだ。

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私が働いていたドヤでは2階は昔ながらの常連客、3、4階は海外旅行者や一般客用になっていた。常連さんで長い人はもう30年以上泊まっていた。カラーテレビあり、ポン中お断りなどの張り紙があるドヤもよくあった。

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とあるお婆さんが外出時に書き残したメモ。
この方に関してはこちらの記事を参照下さい。
https://tocana.jp/2015/06/post_4707_entry.html

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画家だという男性の部屋。
山谷では3畳部屋が多いが短期滞在する分には居心地は良い。

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泥酔している人も冬場だとそのまま命を落とすことがある。そのため頭を軽くたたくのがルール。
反応があれば放っておくし、ひどいようだと誰かが警察を呼んだり処置をする。この方は残念な方であった。

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よくある昔ながらのドヤ。20時あたりになるとすっかり静寂に包まれる。
色々なドヤに泊まったが、鍵の代わりにつっかえ棒を渡されたりそれぞれ。

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南千住駅から陸橋を越えたところに中華料理屋があった。
この張り紙が出て、再度開業することはなかった。そこから少し歩いたところあった牛丼屋で食べた牛丼が腐っているのではと思うほど酷かった。2007年くらいの話だと記憶する。

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携帯電話を持っていない人が多く、公衆電話がまだ活躍していた。

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日比谷線南千住駅まえの路上で寝る人。靴はどこにいったのだろう。
改札で右すぐにある大坪屋は人気店。騒ぐと女将さんに怒られるので静かに飲もう。

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ドヤで暮らす人の中には面倒を起こすひとが少なからずいて、転々とする人がいる。情報はすぐ回ってくるので追い返すのも帳場の仕事。部屋が3畳と狭いので、入りきらない荷物はコインロッカーへ。月極のロッカーが多いのはそういう理由。

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匿名を使う人が多いせいか、無料診断所のカルテは佐藤さんや田中さんだらけ。

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前述の映画「やられたらやり返せ」は、監督・助監督供にヤクザに殺されている。
横断幕で見えにくいが、建物壁面「者」という字の左右に二人のデスマスクがある。

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他区から台東区に来て生活保護を受給することを越境という。山谷は歴史的背景もあって一日の支給費が多いのだ。

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猫はどこでも大人気。おじさんがそれぞれ勝手に名前をつけるものだから10以上の名前がある。

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帳場に座っていると奥の方からもの凄い音がした。行ってみると裏のドヤからの飛び込み自殺。
ニッカポッカ姿で40そこそこに見えた。

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まずい牛丼の店。山谷では色々なところに飛び込んで話を聞いたが、味のせいで話どころではなかった。

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戸時代を代表する処刑場であった小塚原刑場に隣接していた為、刑史、遊女、革職人等の最下層民が多く集まっており、流浪の民が集まる街としての役目はすでに存在していたと考えられる。

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労働センター横を通る三社祭の神輿。写っているドヤは2020年現在でも営業しているところが多い。
労働センター改築前の頃。

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元々は定食屋だったというが、主人がなくなって店をたたんだという。
かわいそうだからと拾って来た猫と暮らしていた。

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私が帳場をしていたドヤに暮らすYさん。哲学書を呼んだりインテリなところがあって、新納さん冬はシャドーが寒いね、とルー大柴のような語り口が印象的だった。

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浅草寺を歩いていると「ここから撮るのがいい」と教えてくれたおじさん。何でもカメラのエアートレーニングを20年続けているとか。ちなみに実際にカメラを持った事はないとのこと。

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今は見かけなくなったが、僕がいた頃は壁や電柱に色々な落書きがあった。
●●(ドヤの名前)には鬼がいるだの、意味がありそうで理解不明なものだのと。

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アメリカから来たピアニストでビデオグラファー。毎年定期的に泊まりにくる。私が山谷を撮ることになったのも彼のせい(おかげではなく、せい)。

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真偽は分からないが、ベトナム戦争で指をなくしたらしい。例の豚汁が気に入ったらしく毎日買っていた。山谷はそういう磁場があるのか、よく分からないことを言う外人さんも多い。

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前述、隅田川に身を投げたおばあさん。

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常連のMさん。一階には共有スペースがあり、コンロや冷蔵庫、パソコンなどがある。
時々のぞくと海外の人と仲良くのんでいたり。言葉の壁なんぞどこ吹く風。

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現在2020年の東京オリンピックの開催も相まって、つぶれたドヤの跡地に高層マンションが建つこともそう珍しくなくなってきた。跡取りがいてもドヤ経営を継ぐことは稀である。山谷は段々と高層マンション群に飲み込まれ、その姿を消すことだろう。

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機材の話だが、シグマの初代DP1がなければ写真集はだせなかったかもしれない。

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仕事帰り、駅からの陸橋にて。
かつて山奥のダム工事など1週間ほど仕事にいくことを出張といい、その帰りを待ち伏せして金を巻き上げようとする連中がいた。

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狭いエリアなので同じ場所を写したものが増えるのだが、年々高層マンションが目立つようになる。これは2012年撮影。労働センターもピンク色に塗装された。

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2012年夏。この方は三ノ輪駅でも時折みかけたが、いつもこの格好であった。

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昭和30年代の高度成長期を迎えると、肉体労働者の需要が急増し、労働者の街としての山谷が確立された。この頃は戦前の二倍強の約300軒の宿が軒を連ねていた。まだ路上で覚せい剤の売人がうろついていたり、売血をしすぎて栄養失調で倒れこむ者が珍しくない時代であった。

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路以北にもドヤは点在し、昭和中期までは映画館など娯楽施設がコツ通り沿いに並んでいたが、労働者数の減少とともに店をたたんでいった。

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完成したスカイツリーを山谷から望む。隅田川の花火大会など、屋上から見ると近いこともあって大迫力。右に写っている建物は山谷最大のドヤ、パレスハウスである。

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サラリーマンや就活生はキャリーケースをころころ引いてくるので帳場に座っているとすぐ分かる。いまでもその音を聞くと当時のことを思い出す。

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繁忙期以外は仕事が終わると3階の角部屋で休んだ。
振り返れば山谷にいた時間はモラトリアムの延長だったのかもしれない。






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